町火消装束とは

【読み:まちびけしのしょうぞく】

町火消は、徳川八代将軍吉宗のときに、大岡忠相(町奉行)によって創設され、1720年(享保5年)に「いろは四七組」をつくり、さらに、1730年(享保15年)正月に町火消を再編成してブロック制の十番組をつくりました。「火消装束」の半纏(はんてん)の文様は、釘抜き、敷き瓦、松皮菱、源氏車、田の字、籠目、輪繋ぎ、井桁などがあり、背中の大紋は、丸紋、将棋の駒、分銅、長方形、雪輪などの中に組名の「いろは」を入れました。組内の半纏は、纏(まとい)持ち、梯子(はしご)持ち、龍吐水(りゅうどすい)[=ポンプの一種]、玄蕃桶(げんばおけ)を持つ者は、それぞれ、「纏」、「梯子」、「龍」、「玄」の字をおきました。半纏は、木綿で、『い組』は、地白に絣(かすり)の敷き瓦で、『他組』は、鼠(ねずみ)地に紺紋でした。下ばきは、釘目の股引き(ももひき)か、盲縞の股引きにわらじがけで、猫頭巾をかぶり、頭取は、革半纏を着用しました。

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