七夕とは

【読み:たなばた】

昔は「棚機」や「棚幡」と表記しました。そもそも七夕とはお盆行事の一環であり、精霊棚とその幡を安置するのが七日の夕方であることから七日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいわれています。牽牛・織女の二つの星が、その間に横たわる天の川を渡って年に一度逢うという伝説があります。これが発展して、女性の願いである裁縫が上達するように祈る祭り「乞巧奠」が中国で生まれました。平安時代から行われていた「星祭り」がこれにあたります。内親王は朝早く起きて髪を洗い、美しく着飾って清涼殿の庭で宴をはじめます。音曲を奏で、鏡や針など身のまわりの用具を揃え、花を飾り、この時期にとれる野菜を並べ、香を焚き、空を見上げながら和歌を披露します。このとき金銀七本の針に五色の糸を通し、梶の葉にさします。この五色は、青・黄・赤・白・紫(本来は黒)で、中国五行思想の五色です。五色の糸がたなびく中、大空のロマンを楽しむこの宴は、夏の宵を、涼しい戸外でいかに楽しく遊ぶかという遊びの達人たちの着想かもしれません。 江戸時代になると五色の色紙短冊に歌を書いたものを笹に結び付け軒先に立てるようになり、町内中が賑やかな雰囲気になりました。糸や短冊の五色は、木、火、土、金、水を象徴しています。天地のすべてを形成する元素を色で表現したもので、五色を飾ることによって、牽牛・織女の二つの星にというより、天地万物すべてのものをつかさどる宇宙の神にもろもろの加護をお願いする祭りなのです。 佐久地方では、女の子が七夕の日に髪を洗い、子供たちはまんじゅうを七つ食べ、七夕人形を庭に面した軒先に七日間つるすという風習があります。この七夕人形は木で作られており、内裏様のような顔形をしていてそれにあり合わせのきものを着せます。必ずその家の子供のきもののあまりぎれを使って、袴ときものを作ります。その子の健康をはじめ、七つの願いごとをとなえながら手縫いをしたものなのですが、きものを着なくなった現在は、あまりぎれがなく、浴衣やふつうの布を使っています。七夕祭りが終わると、人形を川べりに持ち寄って焼き、灰は千曲川に流しました。 七夕は本来だったら新暦の八月中旬にあたります。夏から少しずつ秋の気配がしのびよるときで、農家もひと休み、家族が寄り集まって結束をかためる祭りだったのかもしれません。

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