【読み:りこん】
結婚の始まりが、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の神であるように、離婚の始まりもこの二人からです。伊邪那美 命(みこと)は火の神を生み落した時、身を焼き黄泉の国に旅立ったのですが、伊邪那岐は伊邪那美命を恋慕って、黄泉の世界まで追いかけてゆきます。ところが、伊邪那美が多くのうじ虫にたかられているふためと見られない姿を見た伊邪那岐は、恋心もすーっと冷め、黄泉の国を逃げ出します。怒った伊邪那美は追いかけますが、伊邪那岐の置いた大石にさえぎられ、別れを宣言されました。「あなたの国のひとを一日千人ずつ殺してやる」と伊邪那美がすごむと、伊邪那岐は「それならこちらは毎日千五百人の産声をあげさせる」と言ってついにけんか別れしてしまったのでした。その後、別れる二人は常に血を流すような苦しみとののしりあいの中で別離劇を演じることとなりました。これが離婚のスタートです。 室町時代には、男性が傷つかないよう配慮した「離婚七条」という法律が作られ、以来ずっと近世に至るまで通用するものでした。 一、子供が生まれないこと、二、妻が淫乱であること、三、妻が夫の父母に従わないこと、四、妻が大変おしゃべりであること、五、妻が盗みをしたり、他人をおとしいれたりすること、六、妻の嫉妬が強いこと、七、持病を持ち、病気がちであること この中の一つでもあてはまれば、即座に離縁を申し渡すことができました。しかし一方では、七つの悪いところがあっても、こういう妻は離婚できないという決まりもありました。 一、はじめは貧しくて、後に裕福になった家の妻、二、去って帰る家のない妻、三、夫の父母の喪をきちんと守った妻 もっとも一夫多妻の時代は夫が妻のもとに通わなくなれば自然に離別になるのですが、その場合でも、生活の面倒だけはきちんとみるというのが鉄則でした。昔の男性には自由がある代わりに義務も持たされていたのです。 江戸時代は、この「離婚七条」が厳しくまかり通り、「三下り半」という離縁状を渡すのが普及しました。これは男性側から自筆で三行半(みくだりはん)に書く離縁状で、女性の再婚などを認めない厳しいものでした。結納のとき結婚契約書を七行で書いたので、別れるときはその半分ということらしいのですが、女性は従うしかありません。反対に女性の方から別れたいというときは、地頭(今の村役場の村長さん)に訴えて聞き入れられることもありましたが、どんなに貧しくとも無情でも、多くはだまってたえるのが当たり前でした。 現代では、法律で一夫一妻制が施行されており、離婚七条という男性側に都合の良い法律も消え失せ、夫の浮気、暴力、生活の不安定さなど、すべて妻から離婚を請求でき、妻側の擁護もされています。